300年の歴史を誇る『亀田縞』(かめだじま)
その歴史の深さを下記より垣間見て頂ければ幸いです。

新潟平野を流れる信濃川、阿賀野川およびその支流である小阿賀野川に囲まれた地域は「亀田郷」と呼ばれる地域を形成しており、亀田町はその中心地として発展した。

現在の主な産業としては農業・工業が盛んである。
農業では米、梨、梅(藤五郎梅の品種で知られる)などで、工業では米菓、ミシン部品が有名である。
しかし、大正初期には同産業に勝るとも劣らないほど、織物業が全盛期だったという。日本最北の綿産地であり、600以上の業者によって「亀田縞」が生産されていた。

その伝統的産業『亀田縞』の起源は享保年間とも寛政年間ともいわれるが、定かではない。
亀田地区の歴史年表によると、元禄九年(1696年)の頃に「この頃、木綿縞(のちの亀田縞)が生産開始」とある。これに従うと300年以上の歴史ということになる。
そして、その亀田を中心とする農村地域で農家の自給用として織られていた綿織物が亀田の商人の手によって集荷販売が行われ『亀田縞』としてその名が広く伝わった。
明治10年以降織物製造を営む機屋(はたや)が増加し、地元亀田の問屋によって東北、北海道へと販売された。明治40年代には足踏機の採用、染色技術の改良、同業組合の設立によって、産業基盤が確立され、大正期にかけて『亀田縞』全盛期を迎えた。紺縞、白縞が生産の中心であったが、染色の改良で鮮やかな縞も表現できた。

 300年余りの歴史を持つ『亀田縞』もやがて終息を迎える。それまで農村衣料として質素、牽牛第一の『亀田縞』は一般大衆向け着尺に取って代わられ、追い討ちをかける様に昭和13年からは戦時指定生産がはじまりここに歴史の幕を閉じる事となった。

しかし、昭和、平成と時を超え、二人の職人が『亀田縞復活』を掲げ立ち上がった。
綿織物の産地として名をはせた新潟市亀田地区で、祖父、父から受け継いだ工場を営む中林照雄さんと、弊社6代目の立川治秀である。産地の全盛期は大正時代、織物関連業者は約600といわれたが現在はベッドタウンや商業地として栄える街になり、織物工場は中林さんと弊社の2軒しかない。
そして今、亀田に残る2人の職人が『亀田縞』の伝統を後世に伝える。
















歴史ある『亀田縞』
その技術と伝統を後世に伝承する職人魂。

【亀田縞】正規伝承職人
立川織物六代目 立川治秀



亀田産地の隆盛の象徴『亀田縞(かめだじま)』の復活の取り組みは「どうしても後世に残しておきたい」「機屋(はたや)が無くなってからでは遅い」そんな想いからだった。

戦後60年、最盛期には総計660の業社によって構成されていた産地も今や、機屋を2社残すのみとなった。しかし、郷土資料館に残る【縞見本帳】や産地に保存されていた布や台帳を頼りに出来るだけ忠実にそして更に、以前には無かった天日干し加工を施し、柔らかく肌ざわりの良い綿織物に仕上げました。
『亀田縞(かめだじま)』の特色は手触りの良さと藍(インディゴ)で織られた美しい文様です。

 『亀田縞』の復活に挑んで丸3年、亀田と言う地名も無くなるし…機屋(はたや)も無くなりそうだし…“今しかない”という思いから農家の作業着に使われていた木綿織物『亀田縞(かめだじま)』の生産を半世紀ぶりに復活させた。